キャリアのボルトが短く、ちょっと緩むと脱落しそうな状態だった。5mm長い55mmがあればよかったが、なかったので60mmを調達。乗ってみたらやはり腿に当たる。

暖かくなるのを待って、昼食後に 稙田地区の神社巡りスタート。
- 桑本天満社
- 雄城神社
- 金毘羅宮(玉沢雄城)
- 伊叢皇太神宮
- 日枝神社(高瀬高城)
- 八鉾社
- 印鑰大明神
- 天満宮(市)
- 神明社(市下芹)
- 熊野神社(木上上芹)
- 大津神社
- 浅草神社
- 加久羅神社
- 帰路へ
- まとめ
桑本天満社
ホワイトロード(R210木上バイパス)の脇に案内が出ている神社に初訪問。地元の中学校に通っていたが、当時桑本という地名は全く認識していなかった。現在の行政上の地名は大字玉沢。

東側の鳥居をくぐると参道は左折し、南側の正面鳥居につながる。






東の鳥居や灯籠には平成9年(1997年)の刻がある。社殿も新しいので、ホワイトロードの工事で移転したか、改修されかだろう。
雄城神社
大分雄城台高校の敷地内(でも校門外)の神社へ。
「この直登のあとは勾配緩む」と思っていたが、逆に勾配がきつくなった。開校当時の自転車通学生は自転車を押して登り押して下ってたんやで。なんという位置エネルギーの無駄遣い。

ほとんど行った記憶のない境内。鎮守の森的鬱蒼とした荘厳な空間で、森全体が大分市の名木に指定されている。鳥居は寛永、灯籠は安政の銘が入っている。






拝殿の本坪鈴のところに掲げられた縁起。こちらは「八幡社」。豊後の八幡社は大友能直の赴任後に鶴岡八幡宮から勧請した若宮八幡社が多い。若宮とは八幡神の子という意味で、祭神は仁徳天皇や神功皇后、仲哀天皇であることが多いが、ここは応神天皇。源為朝についてあらためて調べてみたけど、いろんな伝説は御霊信仰による神格化の創作が多そう。
皇紀2600年の稙田村少年団によるもの。

昭和54年(1979年)に神輿、大太鼓、小太鼓を新調したらしい。在学中やん。

本殿裏手の祠。左から天神社、今宮社、保食社、稲荷社、八坂社。平成9年に近隣の祠を集約したらしい。桑本天満社と同じ年ということは、ホワイトロードやトキハわさだタウンの建設が関連していそう。



金毘羅宮(玉沢雄城)
雄城神社から落ちるような道を下ってくると広場。これがGoogleMapsで見つけた金毘羅宮だろうと入ってみる。

降りてきた無慈悲な坂。これを徒歩で登り押しさせるのは拷問感ある。

下側の入口と市の名木のサザンカ。この少し下に高校の自転車置き場がある。

神社の中に仏像があったというより寺の中に神社があったという感じだった。
これを書いている途中で雄城神社のwikipediaを読んでいたら正解だったようで。
南西やや下った地にある雄城公民館には、為朝が開いたとも[4]永正年中(16世紀初頭)の開創とも[5]いう大雄山常済寺という寺院があったが、これが当神社の神宮寺乃至は別当寺であった可能性があり、雄城公民館には為朝の位牌が祀られている[3]。
伊叢皇太神宮
桑本天満宮近くまで戻って粟野の集落の中の神社へ。地図等では伊叢皇神社となっているが、鳥居の扁額は伊叢皇太神宮。読みはいくつかのサイトで「いのむら」となっているが、国税庁の法人番号検索サイトでは「いそこう」となっている。「いそむら」だったら「伊叢皇太神社」が読めんし、「いそこう」だろう。
境内は全面コンクリート張り。






縁起。祭神は豊受大神。皇紀2054年・応永元年は西暦1394年なのでこの山吹御前は木曽義仲とは時代が違うので関連なさそう。伊叢豊受神宮の分霊ということは伊叢=伊勢なんかな?一時期浅草神社(このあと参拝予定)に合祀されていたと。雄城神社と同じく稙田村少年団による。

拝殿内には大日本相撲協会(〜1966年)の力士の奉納写真。右は読み取れなかったが、左は大分市出身の豊國福馬。


拝殿左側の石碑。利光近松さんの頌徳碑。小田急電鉄創業者の利光鶴松さんもこの粟野の集落の出身。お名前からして親戚筋かもと思って検索したら弟さんのもよう。なお、私の母の兄の奥さんの妹(姉だったかも)が利光鶴松さんの子孫と結婚しているので、遠い親戚と言えなくもない。

日枝神社(高瀬高城)
高瀬の日枝神社は想定していたとおり山の中腹のもよう。東参道の石碑があったのでそこから登ってみた。すぐに鎖があったので、そこに自転車を置いて徒歩で。


分岐は、さっきまで見ていたEdgeの地図から判断して右だとと思って進んでみた。

印鑰大明神
縁起。古国府の大國社が印鑰様と呼ばれていたこととリンクするんやろうな。

天満宮(市)
旧肥後街道が通る市の集落の中にある。文字通りかつて市が立っていたところ。
敷地の一部が公民館兼老人憩の家になっている。



拝殿、本殿。奥には大人のワンダーランド、ハンズマンわさだ店。





「これより東臼杵藩領」の碑。江戸時代の大分市は府内藩だけではなく、臼杵藩、竹田藩、延岡藩、熊本藩、天領日田などの領地が混在してた。

神明社(市下芹)
中学校時代の通学路沿いに神社があるのは知っていたが、行ってみたのは初めて。灯籠は享保9年(1792年)の刻。








拝殿内に縁起。祭神は豊受大神で、伊勢神宮からの分霊。慶長4年は1599年。雄城神社、伊叢皇太宮と同じく稙田村少年団によるもの。

右区の祠群。6連は右から秋葉社、保食社、愛宕社、八坂社、牛王社、佐比社。牛王社は熊野牛王符由来か。佐比社は佐比持神?雄城神社と同じ頃に近所から集約されてきたのではないかと思われる新しさだが、創設年の刻はなかった。

熊野神社(木上上芹)
山沿いに西に進むと熊野神社の入口。現在の住居表示では市と木上に分かれているが、かつては上下あわせて芹村だったもよう。









縁起。祭神は事解男命、速玉男命、伊邪那美命。改修は平成22年(2010年)。この山の上のカームタウン木上が第1期2007年、第2期2010年の造成完了なので、その関連で地元にも資金が降りたのかもしれない。


縁起には天満社を改修したとあるが、左右に新しい社があり、どちらが天満社か、天満社ではない方はどの神様なのか明示されていない。これは向かって左側。瓦の神紋が左三つ巴なので、八幡社か、あるいは熊野社重ねの可能性も。


向かって右側の社。右手前に座牛があったので、こちらが天満社の可能性が高い。



左側の祠と、真ん中はどなた?僧形でもないし、仏様でもなさそう。仙人系?

参道の二宮金次郎、昇格記念碑、経王壱部の塔、手水鉢。経王壱部の塔の側面には大正天皇への報恩と今上天皇(昭和天皇)の武運長久祈願が書かれている。この時期でも神仏分離が徹底されていたわけではなかったということか。




大津神社
ホワイトロードを越えて大津神社に来てみたら太鼓の音が大きくなった。雄城神社や日枝神社で聞こえてたやつ、わさだタウンのイベントかと思っていたが、神楽の奉納だった。氏子によるものではなく、大分神楽社という神楽社による奉納だった。後で調べたら、春と秋に大津神社で奉納があり、次の参拝予定地の浅草神社でも奉納があるらしい。




こんな状態ではじっくり観察はできないので出直し。
浅草神社
西に進んで浅草神社。入口に案内がある。途中の竹柱はくり抜いてある。


鳥居の遠景撮れてなかった。右には車道が続いている。扁額は浅草宮。



加久羅神社
山際を時計回りに進んで「浅草神社の表参道どこかな」と思ってゆっくり走っていると想定外の鳥居発見。近づいてみたら旧国道脇の、次の参拝予定地加久羅神社だった。国税庁法人番号公表サイトによると濁らず「かくら」らしい。
扁額は天満社。




平和祈念の碑。地域の戦没者名が刻んである。これもこのあたりに多いパターン。ただここは昭和61年(1986年)建立と、比較的新しい。
この神社が加久羅神社という名前だというのがわかるのはこの碑しかない。

帰路へ
実家手伝い中のため、早めに切り上げて帰路へ。やや風が冷たくなった。






















































































